蒲郡の三ヶ根山スカイパーク 殉国七士廟に行って来た

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三ヶ根山の道
KATさんちに到着してしばらく談笑。バイクで行こうっていう自分と、暑いから車というKATさん。「車だったらさぁ、話せるじゃん・・・」って言われて納得。というわけで、KATさんちの車で三ヶ根山にれっつGO

つか、道に苔生えてんですけど・・・


三ヶ根山スカイラインっていう有料道路に向かってる途中だけど、道がすごい荒れてら。


あちこち苔生えてるし、道に草ははみ出てる。昭和の頃は観光客が一杯来てそこそこ賑わってたそうだけど、最近は減少して放置プレイのところも多いそうだ

こんな廃墟もあるみたい。廃業した後に火事で燃えている廃ホテル

三ヶ根山にある殉国七士廟の石碑

やってきたのは殉国七士廟。戦勝国が事後法で裁くという、近代国家としてはありえない手法でいわゆるA級戦犯として裁かれた七人の骨を埋めている場所。七人の内でただ一人文官の第32代内閣総理大臣 広田 弘毅 も祭られている。弁明を一切せず裁かれた広田弘毅、その生き様は、兵器とすら呼べないような特攻兵器をいくつも考案し、数多の若者の命を奪いながらものうのうと天寿を全うした黒島亀人と全く対称的である。ちなみに陸軍中将佐藤賢了のお孫さんが、元職場の上司だった。佐藤賢了はA級戦犯で終身刑。死刑にされたのが七人で、他にもA級戦犯として逮捕された人は大勢いる。

殉国七士廟の背面には岸信介

そしてこの殉国七士廟の文字は、同じくA級戦犯として逮捕されたが不起訴により釈放された岸信介の文字である。

蒲郡の三ヶ根山 殉国七士廟のモニュメント
駐車場にはモニュメントが。あぐらをかいているカラス天狗の像(だったと思う)だそうだ。

蒲郡の三ヶ根山 殉国七士廟のモニュメントは清掃のため足場が組まれている
高圧洗浄で綺麗にするためモニュメントには足場が組まれていた。


眺めはよかったよ

蒲郡 三ヶ根山 殉国七士廟にあるお墓

昭和23年12月23日 当時の皇太子、今上陛下の誕生日に刑を執行するという、さすが日本兵の頭蓋骨を土産に送ってた野蛮な国の嫌らしい思考回路。この日、七人が絞首刑にされて火葬され、遺骨が捨てられた。それを忍び込んでわずかばかりを盗み出し、隠し持ってたのが、ココに埋葬されている。


”米国の原子爆弾使用ソ連の不可侵条約破棄物資の不足などにより敗戦のやむなきに至った日本の行為を米中英ソ豪加佛蘭新蘭印比十一カ国は極東国際軍事裁判を開き事後法によりて審判し票決により昭和二十三年十二月二十三日未明 土肥原賢二 松井石根 東条英機 武藤章 板垣征四郎 広田弘毅 木村兵太郎七士の絞首刑を執行した。
横浜市久保山火葬場よりその遺骨を取得して熱海市伊豆山に安置していた三文字正平弁護士は幡豆町の好意によりこれを三ヶ根山頂に埋葬し遺族の同意と清瀬一郎 菅原裕雨弁護士等多数有志の参道とを得て墓石を建立した
遥に遠く眼を海の彼方にやりながら太平洋戦争の真因を探求して恒久平和の確立に努めたいものである”


”殉国七士廟由来

東条英機(元陸軍大将) 武藤章(元陸軍中将) 松井石根(元陸軍大将) 木村兵太郎(元陸軍大将) 土肥原賢二(元陸軍大将) 広田弘毅(元総理大臣) 板垣征四郎(元陸軍大将)

昭和二十年八月十五日に終戦となった太平洋戦争(大東亜戦争)の責を問い、アメリカ、中国、イギリス、ソビエト、オーストラリア、カナダ、フランス、インド、ニュージーランド、フィリピン、オランダの十一カ国は極東国際軍事裁判を開き、事後方に依り審判し票決によつて右七名に対し絞首刑を決定し、昭和二十三年十二月二十三日未明前記A級戦犯七名の絞首刑が執行されたのである。

当時としては命がけで火葬場から東条英機大将を始めA級戦犯七名の遺骨を拾得しようと決心したのは、絞首刑の判決が言い渡された昭和二十三年十一月十二日午後のことであつた。なぜならば各担当弁護士が、遺体の家族引渡しの件でマッカーサー司令部を訪ねたが了解を得る事ができなかったからである。このままでは遺体も遺骨も家族には引き渡されず極秘の内に処分されることが明白となるので、罪を憎んで人を憎まずという日本古来の仏教思想からしても、武士道精神として勝者が敗者の死屍に鞭打つ行為は許されない、また日本の将来の平和追求のためにも日本国の犠牲者として罪障一切を一身に引き受けて処刑される七名の遺骨は残さなければならない。

そこで遺骨だけでも家族になんとか渡したいとの一念により大冒険が数名の有志で計画され、その事の実行に当たっては綿密な計画を要した。

それには先ず刑の執行日を速やかに探知しなければと極東裁判米国検事某氏よりやっとの事で七名の刑の執行日はクリスマスの前日十二月二十三日で、火葬場も横浜市久保山火葬場と推察する事ができた。

横浜久保山にある興禅寺住職市川伊雄氏を通じ、久保山火葬場長飛田美喜氏の協力を得ることにも成功した。しかし当日は米軍の監視が厳重であり、一度は当初の計画通り七名の遺骨若干を一体ずつ別々に密かに米軍の目を盗んで奪取し、一応計画は成功したかに思われたが、飛田氏がこれら遺骨の前の香台に日本人の習慣として供えた線香の匂いを不審に思い感づいた米軍人によりこの遺骨は再び米軍に取り戻されてしまった。

しかしその時遺骨本体は既にトラックに積み込まれた後であったので、米軍も面倒と思ったのか、奪取した七名の遺骨を全部一緒に混ぜ、幸いにも近くにあった火葬場内の残骨捨場に遺棄して帰ったのである。

このとき米軍が持ち去った七名の遺骨は全て粉砕し太平洋上に投棄されたとの風評があるが、どの様に処理されたのか真偽のほどはわからない。

そこで、翌二十四日はクリスマスイブであり、浮かれた米軍の見張りが手薄になることを知った三文字正平弁護士と興禅寺住職市川和尚は、木枯らしの吹き荒ぶ夜半黒装束に身を固め、飛田火葬場長の案内で目的の現場に入り込んだ。周囲は暗くても、灯火と物音は禁物である。

骨捨て場の穴は深くて手が届くはずもなく、人が入れるような入口もないので思案の結果、火かき棒の先に空缶を結び付け苦心して遺骨をすくい取る事に成功し、普通の骨壷一個にほぼ一杯を拾い上げて密かに持ち帰った。見張りを気にして手探りで遺骨をかき集める作業は想像以上の大仕事であった。

遺棄された真新しい真っ白の遺骨はまぎれもなくこの世に唯一の七名の遺骨であり、これを奪取することに成功したことは三文字弁護士にとっては一生を通じ命を賭した暑く長き一日のできごとであった。

こうして取得した遺骨は一時人目を避けて伊豆山中に密かに祭られていたが、幾星霜を重ねた後遺族の同意のもとに財界その他各方面の有志の賛同を得て、日本の中心地三河湾国定公園三ヶ根山頂に建立された墓碑に安置されることになり昭和三十五年八月十六日静かに関係者と遺族が列席し墓前際が行われたのである。

以来毎年四月二十九日の天皇誕生日の良き日に例大祭を行うとともに、時折遺族が訪れて供養し、又一般の人々や観光客も鼻を手向けて供養する数を増し、さらに戦病死された戦没者の霊をまつる慰霊碑が数多く建立され、これら遺族や戦友も度々御参拝に参るようになり、世界平和を祈願する多くの人々により三ヶ根山スカイパークの名所としてクローズアップされてきた現在である

弁護士 三文字正平 書

昭和五十九年十月三十一日 建立”

日本の真ん中が、丁度この蒲郡あたりだそうで、遺族が訪れやすいようにと、慰霊碑がたくさん出来ている。

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