蒲郡 三ヶ根山 フィリピン観音霊場 比島観音霊場 観音茶屋 廃墟
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殉国七士廟を出て次に向かったのは廃墟となった三ヶ根茶屋。在りし日は多くの人で賑わった三ヶ根茶屋も今は破壊の限りを尽くされた廃墟となっている。
廃業後、不審火で燃えたりしたみたい。廃墟としては破壊限りを尽くされているので残念な状態。
廃墟見たあとは三ヶ根山名物、慰霊碑を見に行く。三ヶ根山というか蒲郡がちょうど日本の中心で交通アクセスも良いことから、各部隊の慰霊碑が数多く建てられ、三ヶ根山に慰霊碑が集まっている。しかしながら、戦友の多くは鬼籍となり、遺族も高齢となり訪れる人は年々減少している。観光客の減少とあいまって三ヶ根山に多くの廃墟が出来る原因となっているのだろうか。しかもここに来るには有料道路を通らないと行けない。
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碑文 民族の興亡を賭けて戦いし大東亜戦後いつしか四十有余年の歳月を経たり 焦土と化した祖国の復興も成り戦火を交えし国々との国交も回復 共存の道を進みつつある今日祖国の安泰を願い若き血潮を戦塵に染め或いは傷病に倒れ遠い異国の地に散っていった三百余柱の英霊及び生還して平和国家建設に寄与して逝ける戦友の霊をも併せ祀らんと同志相諮りて(はかりて) こきに慰霊の碑を建て 観世音菩薩を勧請(かんじょう)し鎮魂の誠を捧げ共に歩み来れる厳粛(げんしゅく)なる事実を後世に伝え 世界恒久平和への熱き祈りを捧げるものである
独立歩兵第五十八大隊は
昭和十三年四月 熊本第六師団後備大隊を基幹とし中国安徽省盧州に於いて編成独立混成第十三旅団隷下に在りて淮南各地の治安確保に任ずると共に各種作戦に参加
爾後(じご)補充担当名古屋第三師団管下
昭和十八年七月第六十五師団第七十一旅団に改編徐州地区に移転
同年十一月 柄田大佐を支隊長として柄田支隊を編成十一軍の隷下に入り常徳殲滅作戦に参加 昭和十九年一月帰還
昭和二十年三月徐州周辺陣地構築下命対米戦闘の挺身攻撃訓練として八路軍(中国共産党の軍)に対し実敵訓練
昭和二十年八月 山東省宋汪集にて終戦 海州にて終戦の詔書(しょうしょ)拝受(はいじゅ)
昭和二十年十月 徐州警備地区を出発海州に到着 抑留生活
昭和二十一年三月末日連雲港出帆(しゅっぱん)
昭和二十一年四月三日長崎県佐世保港上陸 独立歩兵第五十八大隊解散
爾来(じらい)星霜四十五年顧れば(かえりみれば)惻々(そくそく)として無量の感慨あり
戦場はもとより復員完了迄一糸乱れず軍紀を守り輝ける足跡を遺した事を誇りとし共に感謝の誠を捧げ大隊行動の概要を記して碑文とする
平成四年十月吉日
元独立歩兵第五十八大隊長 従五位勲五等 越本壽雄
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休憩用の長椅子には今は無き、”三ヶ根山回転展望台レストラン”の文字が。そして戦没者数が記載されているが、陸軍369,029人 海軍107,747人 邦人19,737人 の計 496,513人も亡くなっている。50万人近い戦没者か・・
軽巡 阿武隈 この海域で沈没している。祖父の友人が阿武隈の陸戦隊員であったが、沈没でも生き残ったのにその後送られたロタ島で戦死している。真珠湾も奇跡のキスカ島作戦にも参加した。昭和19年10月25日、比島沖海戦においては、第2遊撃部隊に属してスリガオ海峡経由レイテ沖に向かう。そしてスリガオ海峡で沈没
「戦車隊の神様」池田末男大佐率いる士魂部隊への感謝
戦車第十一連隊(士魂部隊)の連隊長として、北千島占守島(しゅむしゅとう)で、ソ連(ロシア)軍を打ち破った池田末男大佐は、明治三十三年地元豊橋市に生まれた。旧制豊橋中学(現時習館高校)を卒業。陸士第三十四期、昭和十六年八月陸軍中佐に昇進。昭和十九年七月、満州四平陸軍戦車学校好調代理に就任。
学徒兵として戦車学校で薫陶を受けた作家の司馬遼太郎氏は、大佐へ寄せる篤い思いを「風塵抄」の仲で披瀝(ひれき)している。
昭和二十年一月、戦車第十一連隊長として占守島に着任。同年六月陸軍大佐に昇進。厳寒の占守島でも変わらず、自分の下着の洗濯を当番兵にさせず、全て自分で洗濯するなど、常に部下を気遣われたという。部下思いの大佐への将兵たちの信望は非常に厚いものがあった。
終戦三日後の八月十八日未明、隊員たちが武装解除への準備を進め、故郷帰還への喜びを語り合っていたその時。日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連は、無法にも島に侵攻、大挙上陸してきた。侵攻してきた部隊は、欧州東部戦線でドイツ軍を打ち破った歴戦の部隊であった。
島の要衝四嶺山に雲集したソ連軍を前に、その撃滅を決心した池田大佐は部下を集めて問うた。「諸氏は赤穂浪士となって、恥を忍んで将来に仇を報ぜんとするか。或いは、白虎隊となり、玉砕をもって、「民族の防波堤」となって後世に問わんとするか。赤穂浪士たらんとする者は一歩前へ出よ。白虎隊たらんとする者は手を挙げよ。」と。
この言葉が終わるや、歓声と共に皆の手が挙がったという。
「池田連隊は、これより敵中に突入せんとす。祖国の弥栄(いやさか)を祈る」
師団司令部に打電するや、池田大佐を先頭に、士魂部隊の戦車群は、四嶺山山麓のソ連軍めがけて殺到した。日の丸の鉢巻に日章旗を片手に掲げ、戦車の砲塔にまたがって先頭を進む、白ワイシャツ姿の池田大佐の姿に、日本軍の将兵皆感激したと伝えられている。
士魂部隊を始めとする日本軍守備隊は、厳しい戦闘の末、ついに上陸軍を撃退した。
ソ連軍の死傷者は数千名にのぼり、祖運外は極めて大きかった。ソ連共産党機関紙イズベスチャは社説で、「占守島の戦いは、満州・朝鮮における戦闘より、はるかに損害が甚大であった。八月十八日はソ連人民の悲しみの日である。」と述べている。
一方、池田大佐(戦死後陸軍少将)はじめ、士魂部隊の精鋭九十六名の勇士たちも、壮絶な戦死を遂げた。
ソ連はこの侵攻にあたり、終戦直後の日本軍の隙を突いて、占守島を踏み台に、全千島列島と北海道本島まで、一気に占領しようと野望を抱いていたことが、戦後明らかになった。
しかし占守島で手痛い打撃をこうむったソ連は、その野望を断念せざるを得なかった。歴史に「もし」があるとするならば、ソ連の軍門に下っていたら、北海道はソ連に分断占領され、ドイルや朝鮮半島と同様、日本国民は塗炭の苦しみを味わうことになっていたであろう。
戦後七十年近くうぃ経て顧るに、大戦が終結した昭和二十年八月十五日、その三日後にソ連(ロシア)によってなされた無法な侵攻に対し、自らの身を顧ず、勇躍、敵を撃退した池田大佐率いる士魂部隊の活躍は、かけがえのない日本の国土(北海道)と日本国民を守るという、正に「民族の防波堤」としての役割を、十二分に果たして下さったものと断言できよう。
改めて、池田大佐はじめ士魂部隊の全将兵の皆様に、深い感謝の意を表させて頂くと共に、この戦で亡くなられた全てのご英霊、並びに戦後ソ連(ロシア)により無謀なシベリア強制抑留で、異国の地に無念の死を遂げられた部隊の方々に対しまして、心からご冥福をお祈り申し上げます。
平成二十六年二月十一日(建国記念の日) 紀元節
池田大佐が、士魂部隊が占守島で無法なソ連軍を打ち破ってくれなければ、北海道は半分、ソ連になっているところだった。何故か教科書で教えない歴史。某半島の嘘の歴史は載せるのに、このような重要な歴史は無かったことにしている。何がすごいって、日本の戦車ってすごいちゃちいのよ。戦車第11連隊(九七式中戦車「新砲塔チハ」20両、「旧砲塔チハ」19両:計39両、九五式軽戦車:計25両) チハたんなのよ。戦車戦なんてムリムリ。これで上陸部隊を撃破したって、相当戦上手。あと、この戦いののちに放棄された陸軍の一式戦闘機隼が復元されて(リバースエンジニアリングでほぼ新造)アメリカで飛んでいる。
観音茶屋の廃墟。つい何年か前までは営業されていたようだ。WALTSコーヒーの看板が愛知だ。各部隊のなんとか会の看板が痛々しい。
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慰霊の話になると思い出す事があります。
ルソン島で戦車第2師団の作戦参謀として戦って、親戚筋では有名な大叔父が
「虐殺も強姦も聞いてない。私が知らないところであったら気の毒に思う」と
関与を否定したマパニケ村大虐殺事件の真相が徐々に明らかになり
戦後も毎年亡くなった部下の慰霊に出向いていましたが、
正直「なんだかなあ・・・」です。
なまじエリートだった故に
仲間の為握りつぶさなければならなかった事実もあるのでしょうが
小野田元少尉の様な潔い下士官の方が立派に見えます。
戦車第2師団の慰霊碑もありました。大叔父さんもここにお参りに来てたのでしょうね。
マパニケ村大虐殺事件に関しては、真偽のほどがわからないので何とも言えませんが、あのような作戦を立てるしかなかったのは大変だったと思います。
小野田さんの話も別角度から見れば、色々思うところもあります。戦争が終わっているのは知っていたのに、住民を殺害しているので罪になるから命令が云々とか。
色々な方向から見ると、見えなかったものが見えたりして面白いです。